明治時代の熊本を知る、ガイドブック「明治の熊本」

新政府による急激な近代化や中央集権化で、これまで支配階層だった武士の特権が奪わ れていきます。新政府設立の立役者であった西郷隆盛は、明治政府の参議となり、陸軍大将 も兼ねていました。明治6(1873)年、朝鮮への対応をめぐる征韓論争で意見が受け入れら れなかったため、参議を辞職し、故郷である鹿児島へ帰りました。当時新政府を担っていた 鹿児島出身の官僚や軍人約600人も同時に辞職し、西郷とともに鹿児島で私学校を設立しま した。各地で士族の反乱が発生している中、新政府は大きな武力となりうる私学校生徒と強 いカリスマ性をもつ西郷に対して警戒を強めます。それに不満と怒りを募らせる私学校生徒 達。西郷隆盛暗殺計画の噂も流れ始め、これをきっかけに、私学校の生徒でもあった旧薩摩藩 士たちは明治政府に対する挙兵を決意しました。そして、明治10(1877)年、西郷隆盛を首領 にして、国内最後の内戦「西南戦争」が開戦しました。 西南戦争、開戦   明治10(1877)年2月15日、総勢1万3千人にもなる薩摩軍が鹿児島を出発します。一 行は明治政府に対して抗議をする名目で東京に向かいました。東京へ向かうためには熊本 を通る必要があります。そこで、熊本鎮台総司令官であった谷干城少将に、西郷隆盛の名 で「薩摩軍らが熊本を通るので、通過できるようにしてほし い」と通達を届けます。しかし、熊本鎮台は、既に薩摩軍に抗 戦するよう政府側の命令を受けていたため、その通達を拒 否。熊本城にて戦闘が開始しました。 当初、薩摩軍側では「熊本は抑えに徹し、主力は東上に進む」と いう案と「全軍をもって熊本城に一斉攻撃」という案で意見が 分かれましたが、最終的に「全軍をもって熊本城に一斉攻撃」案を 採用。熊本城を包囲し、薩摩全軍で総攻撃に当たります。しか し、3日間攻撃をしても熊本城はビクともしません。すぐには落と せないことを察し、薩摩軍側は兵糧攻めの作戦に切り替えます。 3,300人の兵士を賄う食料が先に尽きるのを待つことにしたの 熊本城攻防戦 近代日本、最大にして、最後の内戦 加速していく時代の流れ  薩摩軍の一斉攻撃に耐えた政府軍側は次々と援軍の兵士を北から送ります。薩摩軍も対 処せざるを得ませんでした。熊本城には兵士を約3,000人残し、残りは政府軍を迎え打つた めに北上します。  熊本城の北に位置する田原坂は唯一大きな大砲が通れる道でした。よって政府軍はどう しても田原坂を通る必要がありました。そのためこの地が西南戦争の激戦地となります。  西南戦争は大砲や小銃など、当時では近代的な武器を使用した戦いとなりましたが、この 田原坂で発砲された弾丸は政府軍側だけで1日60万発に達したとも・・。あまりに多くの弾 丸が飛び交ったので、空中で弾丸同士がぶつかった「かちあい弾」と呼ばれるものが、田 原坂付近から見つかっています。 高橋公園に建つ谷干城像 です。薩摩軍は坪井川と白川をせき止め、城下を水攻めにするなど、熊本城下は壊滅的な 状況となりました。  熊本城での籠城は52日間にも及び、籠城した3,300人 が耐え抜きました。籠城戦は「捨て身の戦法」であり、籠城 で勝ちを収めた戦はあまり例がありません。加藤清正が作った城は、まさに築城 から270年経った西南戦争の時に、その本領を発揮しました。 小話 其 の 四 熊本城での籠城  政府軍には、兵士1人ひとりに洋服の制服が支給されていま した。使用していた主な銃器は、スナイドル銃といわれる小銃 で、エンフィールド銃を改良したものでした。手元で簡単に弾丸 を込めることができ、雨にも強く、銃の先に剣をとりつけたまま 発射することができました。薩摩兵の服装は着物や洋装など、 各人個別の格好をしていました。熊本市田原坂西南戦争資料 館では、実際に使われた銃など、間近に見ることができます。 小話 其 の 五 政府軍・薩摩軍の武器・武装 田原坂の戦い 自分は、清正公に 負けたようなものだ 西郷隆盛 西郷隆盛 たに たて き ※ ※熊本市田原坂西南戦争資料館「年刊 田原坂vol.4」より 11 10

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