明治時代の熊本を知る、ガイドブック「明治の熊本」

小楠は熊本市沼山津にある四時軒で蟄居の身を過ごします。勝海舟 の弟子であった坂本龍馬は3度、四時軒を訪れています。龍馬が、勝海舟 から託された手紙や金品を小楠に 渡したと記録が残っています。  江戸時代の半ば、宝暦5(1755)年に藩主 細川重賢によって作られた藩校「時習館」 は、学費が無料で、藩士の子弟のみならず、 成績優秀であれば庶民も入学が許され た学校です。全国から優秀な生徒が集ま り、卒業生は明治政府にも多く登用されま した。 江戸時代に培われた教育「時習館」  横井小楠は、文化6(1809)年、熊本城下の内坪井に下級武士の子として生まれました。 8歳で藩校時習館に入学(10歳という説もあり)。エリート集団の中で頭角を現し、他の生徒 を指導する居寮生から居寮長になります。藩から江戸留学を命じられるなど、このまま行けば 出世街道間違いなしのはずでした。しかし小楠は学問のあり方に疑問を持ちます。時習館で の学びは、意味調べや暗記に留まるだけ。学んだことを生かさなければ学問を究めたことに はならないのではないかと。経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)の道こそ本領。 いわゆる「実学」のススメでした。こうした考えは時習館出身者が占める藩の主流派から睨 まれることになります。 学問を実用に  江戸留学から戻った小楠は、天保14(1843)年、自宅で 私塾(後の小楠堂)を開きます。入門第一号は徳富一敬(徳 富蘇峰、蘆花の父)でした。小楠の名声は越前福井藩(福井 県)にも聞こえ、藩主 松平春嶽に招かれ、藩校改革や財政立 て直しに手腕を発揮します。「横井実学」に舞台が与えられま した。松平春嶽の厚い信頼を得た小楠は、春嶽が幕府の政事 光が見えたつかのま、士道忘却事件発生 福井県にある横井小楠像(右)、 左は三岡八郎(由利公正) 坂本龍馬の来訪  慶応3(1867)年。徳川300年はついに瓦解します、倒幕の要因となった「薩長同盟」の 仲介役であった坂本龍馬は密約の計画を秘 めて薩摩へ向かいました。そしてその帰路に 四時軒を訪ねています。これが、二人の最後 の会談となりました。  新政府は小楠を新政権の舵取り役として参 与として迎えいれます。そして明治2(1869)年 1月5日、出仕した帰り道に刺客に襲われ、志 半ばで維新の舞台から去りました。小楠61歳 の時でした。 志半ば。凶刀に倒れる 襲われた際に小楠が応戦した小刀 ~横井  小楠の活躍~ 四時軒(平成28年熊本地震以前) 時習館跡(熊本城 二の丸広場) 総裁職に就任すると、その相談相手となりました。日本のブレーンになったのです。しかし、文 久2(1862)年12月、酒宴中に暴漢に襲われた際、小楠は無刀だったため、とっさ に刀を取 りにいった行動が敵前逃亡とみなされ、武士にあるまじき行為として士籍剥奪、蟄居処分となって しまいます。「士道忘却事件」とよばれた事件です。 江戸時代の蓄積が明治に花開く 坂本龍馬 よこ い しょうなん ほそ かわしげ かた とくとみ かず たか そ ほう まつだいらしゅんがく ろ か きょりょうせい きょりょうちょう ちっきょ ぬ やま づ し じ けん かつ かいしゅう さかもとりょう ま 新しい政府が 出来る時、 先生(小楠)の出番は きますから、 その時会いましょう。 ※1 ※2 ※1 特待生のようなもの ※2 塾長 維新の夜明け前 3 2

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