明治時代の熊本を知る、ガイドブック「明治の熊本」

小楠が暗殺された明治2(1869)年、版籍奉還によって細川藩は熊本藩と改められました。 翌年、細川護久が二代目藩知事に就任すると、小楠の流れを汲む弟護美とともに本税の軽 減、雑税の廃止、禄制の改革や時習館の廃止など大々的な藩政改革が断行されました。熊 本城も近代化にふさわしくないと取り崩すプランもあったほどの急進的なものでした。  実行の中心になったのは、小楠門下の竹崎律次郎、嘉悦氏房、徳富一敬 (徳富蘇峰、蘆花兄弟の父)らでした。なかなか熊本では受け入れ られなかった小楠の「実学」がようやく受け入れられはじめたの です。蘆花は叔母の伝記「竹崎順子」で「肥後の維新は明治三年に 来た」と書いたのはそういう意味でした。 受け継がれる意思  明治維新後、教育で近代化を図ろうとした熊本藩はその一貫として、江戸時代に家老屋 敷があった熊本城の一部(古いお城があった古城と呼ばれる場所)に「古城医学校」と「熊本 洋学校」を開校します。  古城医学校にはオランダ人軍医マンスフェルトが招かれ、明治4(1871)年に開校しました。 卒業生には、日本細菌学の父「北里柴三郎」や日本産婦人科学の始祖「浜田玄達」、東京帝 国大学医科大学の衛生学初代教授「緒方正規」などがいます。マンスフェルトが熊本で教鞭 をとったのはわずか3年の間でしたが、古城医学校からは日本の医学を背負うことになる多く の人材が巣立ちました。  同じく明治4(1871)年、アメリカの退役軍人であるL・L・ジェーンズが招聘され、官費の学 校として「熊本洋学校」が開校しました。授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、 地質、生物があり、すべて英語で行われました。明治7(1874)年には日本で初めて男女共学 を行い、徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学しました。  ジェーンズは、西洋野菜の種を輸入し、栽培方法を教えたり、牛乳や牛肉を食させて壊血病を 治すなど、西洋の良さを伝えました。明治9(1876)年に熊本洋学校が閉鎖になるまで、ジェーンズ は、多くの文化と知識、技術などを熊本にもたらし、熊本の発展に大きな影響を与えてくれました。 教育で近代化を図る、教育改革 徳冨蘆花著 「竹崎順子」1923 熊本の維新 江戸時代の蓄積が明治に花開く 熊本洋学校にジェーンズを迎える ため明治4(1871)年に建てられ た洋館。ジェーンズは明治4年か ら明治9(1876)年までの5年間を この建物(当時ジェーンズ邸は現在 の古城町にありました)で暮らしま した。平成28年熊本地震によって 北里柴三郎博士の生家や、北 里氏から小国町に寄贈された 北里文庫(図書館)を改修し、偉 業を称える施設。敷地内には 生家の一部や、和風木造2階 建ての貴賓館があり、その2 階から望むわいた山は一見 の価値があります。 ■ 小国町北里3199 熊本洋学校教師館ジェーンズ邸 ※写真は平成28年熊本地震以前のものです。※現在建物はありません。 北里柴三郎記念館 この建物で 5年間 暮らしました。 ジェーンズ邸外観 ジェーンズ邸内観  「破傷風」とは、破傷風菌によって発生し、感染すると全身の硬直や呼吸困難に陥り、最 悪の場合には死に至る恐ろしい病気です。破傷風菌は土の中にいて、主に傷口などから体 内に入り感染します。北里氏は、明治22(1889)年に世界初の「破傷風菌純粋培養法」に成 功し、明治23(1890)年に「破傷風菌の抗毒素」を発見しました。そして、血清療法を確立し、 破傷風感染症の治療に貢献しました。 小話 其 の 弐 日本の細菌学の父 北里柴三郎 ジェーンズ 関連スポット もり よし たけざき りつ じ ろう きたざと しば さぶろう はま だ げんたつ お がた まさ のり とくとみ はつ こ か えつ うじふさ たけさきじゅんこ 建物は崩壊。現在は復旧に向けて調査、検討 会が為されています。ここは、明治10(1877) 年の西南戦争の際、博愛社(日本赤十字社) の設立許可を受けた場所でもあります。 7 6

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